その時が来た ふたたび
こんにちは
タイトルは以前も書いたのと同じタイトルなので「ふたたび」です。
こちらが一回目
https://sacchanhitorigoto.seesaa.net/article/201408article_1.html
一回目と違うのは、本日はもう全部終わった後だと言うことかな。
母が亡くなりました。
満95歳。
父の時はいろいろと後悔することがあってだいぶ後々まで引きずっていた管理人ですが、今回はすごくからっとしてます。 父が亡くなった時は母は家に一人でいたのですが、高齢で自力で歩くのがものすごく大変でしたので、施設からの遺体の引き取り、葬儀屋さんへの連絡と葬儀までの段取りなど、すべて姉と私の二人でやりました。上のリンク先にも書いたんだけど、それぞれのダンナ方は当てにならない人たちではありませんが、お金が絡むとなかなか手を出しづらい様子なので、私達が動くしかなかったというわけです。
今回も然り。
ただ父の時と違うのは、母は病院で亡くなったと言うことですかね。
今月に入ってから様子がおかしいと言うことで、施設から病院で見てもらいましょうという話が来たのが先週。話を聞くために姉と私が付き添いましたが、いろいろと検査をした結果、即入院と言うことに。
誤嚥性肺炎を起こしている、肺に水がたまってる、心臓も弱っていると、まあいいことなし(^^;ゞ
まずは入院して肺炎を治し、今後誤嚥性肺炎を防ぐために胃瘻の手術をしようという話になりました。
しかし・・・
胃瘻ってさ、つまり体のどこかに穴を開けて、そこから胃の中に直接栄養を送り込むって事なのよ。
父もやってました。父の場合は寝たきりになってから、痰が絡んでも自力で出せなくなりつつあったので、気管切開もしていました。
たばこを長いこと吸ってたせいかねぇ。ほんとよく痰が絡んでましたよ。
病院には痰を吸い出す機械があります。ただねぇ、それもうまくいかないらしいのよ。別に看護師さんの腕がどうのという話ではなく、痰の状態に問題があったらしいんだけどね。
そんなわけで、父の場合は口から飲み食いは一切出来ず。
栄養は直接胃に入ると言われても、食べられない飲めないは見ていて本当につらかった。
なので母も胃瘻の手術をしたらそうなるのかと聞いたら、別にそういうわけではなく、口から食べ物も食べられるらしい。施設にも戻れてまたおいしいご飯を食べることも出来ると言うことなので、母をなんとか説得しなければと頭を悩ませていたわけなんですが・・・
入院してから2日目までは、肺炎のせいで声を出すのが苦しそうだった以外は特に何事もなかった。でも4日目に私が行った時には話しかけてもあまり反応がなく、ぼんやり。でもご飯は食べるんだこれが( ̄∀ ̄;
看護師さんに聞いても、三度の食事は全部平らげると言われ、安心はしていたんですよ。でも、7日目に様子がおかしくなってICUに入り、MRIを撮ったところ、脳梗塞を起こしている事が判明。
最もそんなに重いものではなかったらしく、点滴で様子を見ることにしたのですが、何と言っても高齢。延命措置についての説明が。
以前本人からは「そんなのいやだ」と言われていたので、ここは本人の意思を尊重するべと言うことで、人工呼吸器などの延命措置はなしと言うことになりました。
そして翌日、午後になって病院から連絡があり、呼吸の状態がよろしくないと言うことだったので、とりあえず姉に行って様子を見てもらうことに。私の会社は病院から遠いのよ(^^;
それから1時間ほどして、今度は姉から電話。
血圧が60台まで下がってしまったので、呼びたい人はすぐに呼んでくださいと看護師さんから言われたと。
それからはもう必死よ。机の上に広げてあった仕事をがーっとまとめて未処理の箱に放り込み、パソコン閉じて会社を飛び出したのが3時50分。
これはタイムカードの時間なのではっきり覚えています。
平日の昼間なら裏道が近かろうと車を走らせて病院に着いたのが4時10分くらいだったかな。
今はねー、面会するのに検温と消毒が必須なのよ。面会も受付で紙をもらってナースステーションに届け出てと言う、手続きが大変。しかもICUは入るにも履き物履き替えて割烹着みたいなの身につけてと、さらなる手続きも必要。
でもね、今回は間に合いました。呼吸も血圧も脈拍もどんどん落ちてきて、取り付けられた機器のアラームが鳴りっぱなしの中、呼吸も血圧もゼロになって、心電図がまっすぐの線になるまで、声をかけて、手を握っていました。
満95歳。
なんとか自力で自分の家で生活したいとこだわっていたものの、3年前にとうとう歩けなくなって施設に入ることになって、最初は渋々だったくせにあっという間になじんで、ごはんがおいしい、おやつがおいしい、介護士さん達がみんな優しいと言っていた母。
施設に入るの、ものっっっっすごく嫌がってたくせにねぇ( ̄∀ ̄;
亡くなる3日前までは病院のご飯は全部完食して、容態が悪くなってからも苦しんだと言うほどのこともなく、最後は眠るように静かでした。
亡くなってからの大変さは父の時と同じ。でもね、本当に眠っているような安らかな顔見てると、途中いろいろあったとしても、最後は幸せだったんじゃないかなあと思います。
私達姉妹もね、何と言いますか、やり切った感があるのよ(^^;
悲しいのは悲しい。もう少し長生きしてほしかったというのもあるのはある。だけど、これでよかったんじゃないかなと、私には思えます。
遺影もね、施設で撮影した写真にいいのがあったので使わせていただきました。いい笑顔で写っているのよねぇ。
昨日葬儀が終わって、後の仕事は四十九日の法要と納骨。
実は今年は父の七回忌で、8月頭に法事を予定していたのよ。それも母の四十九日に会わせて延期。
父が「母ちゃん、そろそろいいベ」なんて呼んだのかもしれませんよ。
今頃「あたしはまだ来たくなかった」とかけんかしてたりして( ̄∀ ̄;
仲良くしてほしいもんです(^^;ゞ
とうとう両親とも亡くなり、私にとっての「親」は旦那の両親だけになりました。旦那の両親には長生きしてほしいものです。
※我が家には嫁姑戦争はないので、これは心からの思いでございます。
しかしやり切った感があるとは言え、どこにダメージが残っているかわからないので、しばらくはおとなしく、家でゲームでもやってた方がいいような気はしています。まあいつもだけどさ( ̄∀ ̄;
タイトルは以前も書いたのと同じタイトルなので「ふたたび」です。
こちらが一回目
https://sacchanhitorigoto.seesaa.net/article/201408article_1.html
一回目と違うのは、本日はもう全部終わった後だと言うことかな。
母が亡くなりました。
満95歳。
父の時はいろいろと後悔することがあってだいぶ後々まで引きずっていた管理人ですが、今回はすごくからっとしてます。 父が亡くなった時は母は家に一人でいたのですが、高齢で自力で歩くのがものすごく大変でしたので、施設からの遺体の引き取り、葬儀屋さんへの連絡と葬儀までの段取りなど、すべて姉と私の二人でやりました。上のリンク先にも書いたんだけど、それぞれのダンナ方は当てにならない人たちではありませんが、お金が絡むとなかなか手を出しづらい様子なので、私達が動くしかなかったというわけです。
今回も然り。
ただ父の時と違うのは、母は病院で亡くなったと言うことですかね。
今月に入ってから様子がおかしいと言うことで、施設から病院で見てもらいましょうという話が来たのが先週。話を聞くために姉と私が付き添いましたが、いろいろと検査をした結果、即入院と言うことに。
誤嚥性肺炎を起こしている、肺に水がたまってる、心臓も弱っていると、まあいいことなし(^^;ゞ
まずは入院して肺炎を治し、今後誤嚥性肺炎を防ぐために胃瘻の手術をしようという話になりました。
しかし・・・
胃瘻ってさ、つまり体のどこかに穴を開けて、そこから胃の中に直接栄養を送り込むって事なのよ。
父もやってました。父の場合は寝たきりになってから、痰が絡んでも自力で出せなくなりつつあったので、気管切開もしていました。
たばこを長いこと吸ってたせいかねぇ。ほんとよく痰が絡んでましたよ。
病院には痰を吸い出す機械があります。ただねぇ、それもうまくいかないらしいのよ。別に看護師さんの腕がどうのという話ではなく、痰の状態に問題があったらしいんだけどね。
そんなわけで、父の場合は口から飲み食いは一切出来ず。
栄養は直接胃に入ると言われても、食べられない飲めないは見ていて本当につらかった。
なので母も胃瘻の手術をしたらそうなるのかと聞いたら、別にそういうわけではなく、口から食べ物も食べられるらしい。施設にも戻れてまたおいしいご飯を食べることも出来ると言うことなので、母をなんとか説得しなければと頭を悩ませていたわけなんですが・・・
入院してから2日目までは、肺炎のせいで声を出すのが苦しそうだった以外は特に何事もなかった。でも4日目に私が行った時には話しかけてもあまり反応がなく、ぼんやり。でもご飯は食べるんだこれが( ̄∀ ̄;
看護師さんに聞いても、三度の食事は全部平らげると言われ、安心はしていたんですよ。でも、7日目に様子がおかしくなってICUに入り、MRIを撮ったところ、脳梗塞を起こしている事が判明。
最もそんなに重いものではなかったらしく、点滴で様子を見ることにしたのですが、何と言っても高齢。延命措置についての説明が。
以前本人からは「そんなのいやだ」と言われていたので、ここは本人の意思を尊重するべと言うことで、人工呼吸器などの延命措置はなしと言うことになりました。
そして翌日、午後になって病院から連絡があり、呼吸の状態がよろしくないと言うことだったので、とりあえず姉に行って様子を見てもらうことに。私の会社は病院から遠いのよ(^^;
それから1時間ほどして、今度は姉から電話。
血圧が60台まで下がってしまったので、呼びたい人はすぐに呼んでくださいと看護師さんから言われたと。
それからはもう必死よ。机の上に広げてあった仕事をがーっとまとめて未処理の箱に放り込み、パソコン閉じて会社を飛び出したのが3時50分。
これはタイムカードの時間なのではっきり覚えています。
平日の昼間なら裏道が近かろうと車を走らせて病院に着いたのが4時10分くらいだったかな。
今はねー、面会するのに検温と消毒が必須なのよ。面会も受付で紙をもらってナースステーションに届け出てと言う、手続きが大変。しかもICUは入るにも履き物履き替えて割烹着みたいなの身につけてと、さらなる手続きも必要。
でもね、今回は間に合いました。呼吸も血圧も脈拍もどんどん落ちてきて、取り付けられた機器のアラームが鳴りっぱなしの中、呼吸も血圧もゼロになって、心電図がまっすぐの線になるまで、声をかけて、手を握っていました。
満95歳。
なんとか自力で自分の家で生活したいとこだわっていたものの、3年前にとうとう歩けなくなって施設に入ることになって、最初は渋々だったくせにあっという間になじんで、ごはんがおいしい、おやつがおいしい、介護士さん達がみんな優しいと言っていた母。
施設に入るの、ものっっっっすごく嫌がってたくせにねぇ( ̄∀ ̄;
亡くなる3日前までは病院のご飯は全部完食して、容態が悪くなってからも苦しんだと言うほどのこともなく、最後は眠るように静かでした。
亡くなってからの大変さは父の時と同じ。でもね、本当に眠っているような安らかな顔見てると、途中いろいろあったとしても、最後は幸せだったんじゃないかなあと思います。
私達姉妹もね、何と言いますか、やり切った感があるのよ(^^;
悲しいのは悲しい。もう少し長生きしてほしかったというのもあるのはある。だけど、これでよかったんじゃないかなと、私には思えます。
遺影もね、施設で撮影した写真にいいのがあったので使わせていただきました。いい笑顔で写っているのよねぇ。
昨日葬儀が終わって、後の仕事は四十九日の法要と納骨。
実は今年は父の七回忌で、8月頭に法事を予定していたのよ。それも母の四十九日に会わせて延期。
父が「母ちゃん、そろそろいいベ」なんて呼んだのかもしれませんよ。
今頃「あたしはまだ来たくなかった」とかけんかしてたりして( ̄∀ ̄;
仲良くしてほしいもんです(^^;ゞ
とうとう両親とも亡くなり、私にとっての「親」は旦那の両親だけになりました。旦那の両親には長生きしてほしいものです。
※我が家には嫁姑戦争はないので、これは心からの思いでございます。
しかしやり切った感があるとは言え、どこにダメージが残っているかわからないので、しばらくはおとなしく、家でゲームでもやってた方がいいような気はしています。まあいつもだけどさ( ̄∀ ̄;
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